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<さて、近年考えられないような幼児虐待事件が頻発している。自分のお腹を痛めて産んだ子を殺すという母の心理が、どうしても理解できない。いのちを産むということは、それを讃えて育てていくという無言の約束事があって成立するものだ。そこで人は子守唄を作りだした。いつごろから歌い始められたか文献によって証明することは難しいけれど、母の子への注ぐ情愛がつぶやきになり、ささやきになり、やがては歌になったというプロセスを疑うことはできない。幼児虐待をする母はそのプリミティーブな母性を失っていると断じていい。それが犯罪にならないまでもその予備軍は巷に隠れているだろう。夫婦の性愛はあっても子育ての熱意が欠落したとき、世の中の空気はどう荒んでいくか言わずもがなである。母の慈しみの声を聞かずに育った子が成長してどんな人間になるか、およそ想像がつく。>
( 『子守唄再評価』 乾いた世情だからこそ 『いま この時代に』 詩人 松永 伍一氏
西日本新聞 031214 )
突然ですが「新聞記事」の紹介をします。
掲示板投稿のみなさんのメッセージを読ませていただきながら、どこでどういう風にコミットできるものだろうと考えていました。場違いか、方向違いだったらお許しください。松永さんのこの記事を読んで、「母の慈しみの声」を懐かしく思い出していました。そしてその声に戻りたいと思ったりしました。乾いた、荒んでいきそうな、そして不安に追いまくられながらも身近なものや人の中に安心を必死で求めていこうとしている姿を性を巡る生き方の中に感じてきました。<いのちを産む>ということと<性愛>がまるで別世界のことのように見えることが多かったのですが、<いのちを産む>と<性愛>をつなぐものとして<母の慈しみの声>を考えていこうと思います。
松永さんは <願わくば子育て最中の母親たちに伝えたいし、女子高校生にも性教育と併行していのちの讃歌の本質に触れてほしい。>
という願いを発信しています。この発信を受けて、松永さんが私たちに伝えたいものが何なのか考えていきたいし、<性と生の自立>の道筋をたどるひとつの契機になっていけばと願っています。
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